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スタッフ・ブログ:「寄付は強制されるものではない。共感、『共生』だ」



2020年6月24日

認定NPO法人 茨城NPOセンター・コモンズ

常務理事・事務局長 大野 覚


常務理事・事務局長として活動しております大野です。いつもコモンズの活動へのご支援、ご協力、本当にありがとうございます。

近況報告がてら、とても気になる新聞記事を読み、多くのモヤモヤと違和感を感じたので、(普段は忙しさを理由にさぼっている)コモンズの活動を通じた個人的な想いの発信をしたいと思います。


認定NPO法人の更新申請の実地調査を受けました

まず近況報告ですが、昨日は認定NPO法人の期間更新申請に伴う茨城県の実地調査に対応していました。国税庁の認定NPO法人時代を含めると、これで3回目の認定NPO法人申請となります(5年分のチェックは初めて)。

これまでの5年間、認定NPO法人として寄付を通じて多くの皆様にサポートしていただいたことの振り返りと(本当にありがとうございました)、運営上問題がなかったかの県による証拠書類での確認作業でした。

まだ最終決定には至っていない段階ですが、対応した事務局側の感触としては、次の5年間も認定NPO法人として名乗り、胸を張って寄付の募集を行うことができるのでは、と感じました。

いくつかご指摘いただいた課題を踏まえつつ、さらにガバナンスを改善して、引き続きコモンズの活動を様々な皆様にサポートいただきたいと思っています。更新申請にご協力いただいた皆様、特に前理事の江崎さん、本当にありがとうございました。


兵庫・加西市長の行動、それに対する報道への違和感

さて、本題です。(いつも前置きが長くてすみません)

上記の作業もあり、寄付ということにいつも以上に敏感になっていたこの時期に、以下の記事が目に留まりました。

朝日新聞(2020年6月23日)「10万円の寄付呼びかけ、非正規職員にも 兵庫・加西市」
 
(注)以下の見解は大野個人としてのもので、コモンズの見解ではありません。また、朝日新聞社そのものを批判しているものでも全くなく、記事の内容、視点、関係者の発言などに「ん?」と来たものを書いています。


この記事以外に関連記事を読んだわけではありませんし(すみません、その余裕はなく・・・)、いわゆる「裏を取って」いるわけでも全然ありません。ただ、この記事に書いていることが真実という前提で、この記事に書かれたことに対して、個人的に違和感を感じたことをまとめたいと思います。


寄付は強制されるものではない

まず、大前提として、寄付募集、いわゆるファンドレイジングと呼ばれる行為の一部ですが、それ自体は本来大いに取り組まれるべきものと思います。私は一応アメリカでNPOの経営、特にファンドレイジングについてこだわって学んできた身ですが(その知見も10年以上前なのでアップデートしないと・・・)、寄付は市民と社会課題を結び付ける、重要な手段というか、コミュニケーション、営みだと考えています。ボランティアという時間の寄付以外に、お金の寄付は、市民が社会に参画する重要な手段の一つだと思います。

自分はどんなイシュー(社会課題)に関心があるのか、どんな社会を理想としているのか、社会がどのようになって欲しいのか、それに取り組んでいる地域の団体はどこか(そもそも存在しているのか)、その団体の目的、これまでの活動、これから取り組もうとしている活動は何か、財政状況はどうか、それらに共感して「応援したい」と本気で思えるか、自分がサポートできる現在の懐事情はいかほどか、などなど、寄付という一つの行為を通じて、様々なことを考え、学び、確認するプロセスがあります。寄付を通じて、住民が「市民」になると思っています。それほど寄付は大事な行動だと私は思い、こだわりがあります。

それを「面倒くさい」と捉えて行動しないか、「勉強になる」と考えて積極的に行動するか、もちろん人それぞれですし、寄付をしない人がそもそも非難される話では全くないと思います。寄付することは一つの市民としての権利ですし、その権利執行を他人が侵してはならないとさえ思っています。

で、ですが(また前置きが長くなった)、上記の記事でまず何が気になったかというと、いわゆる強制、強要されている「雰囲気がある」、ということです。

市長という行政のトップが、同調圧力の強い(いわゆる空気を読み過ぎる)日本社会で、職員という被雇用者に対して寄付募集をしたらどうなるか、それは誰もが想像つくことです。法的には何も犯してはいないけれども(市長もその一線は絶対超えないでしょうけど)、いわゆる強要されている空気感が生まれているわけです。

それまでだったらまだしも、記事のとおりであれば期末手当の「天引きの依頼書」といった事実上の強制性を伴うものが文書で回ってくるというのですから、まぁ悲惨な状況なわけですよね。

恐らくこの文章を読まれている多くの皆さんには、この件に関して既視感があると思います。以下のニュースは既に多くの人が接して、また今回の加西市の市長も恐らくその反響も含め、知らないことはないだろうと思いますが、「だったらなぜに」とも思うわけです。

朝日新聞(2020年4月22日)「『職員の10万円活用』発言、事実上撤回 広島知事」


誰かのために募金」とは何が違うのか

例えば、コモンズが事務局を務めているいばらき未来基金も「誰かのために募金」として、新型コロナウイルスの影響によって生活困難となった茨城県民を支える活動の原資として現在寄付募集をしています。広島県知事のニュースが出た時は「誰かのために募金」の構想を既に持っていたので、正直余計なことをしてくれたなと思いました。(寄付が集めにくくなるなと)

じゃ、「誰かのために募金」と今回の加西市長の行動と、何が違うのか、がポイントです。同じことを私がしたら(してませんが)、職員からは同じようなリアクションが出ると思います。絶対そんなことはしませんが、こういうことも起こりうると他山の石にしなければと思いますが。

まず、市職員からの寄付が前提となっていて、対象が限定されてしまっているのが問題なわけです。なぜ市民に呼びかけないのか(呼びかけているのかもしれませんが、すみません、確認していません)。「徴収しやすいところから取ってやろう」という意識が垣間見えて、上記の寄付の本来の趣旨や文化とは大きくかけ離れており、そもそもその行為を寄付と言って欲しくない状況です。


ふるさと納税にも通ずる違和感

それもそうですけど、そもそも行政という徴税権を持つ組織が、税金とは別に寄付を募る、という行為自体に、私はそもそも違和感を感じています。ふるさと納税、ガバメント・クラウドファンディングとも呼ばれていますが、それ自体も私は肯定的に捉えていません。

地域に課題があって、公的財源が不足しているなら、それを住民にしっかり伝えて、議員も含めて議会で正々堂々議論し、予算化すれば良いだけなのでは、と思います。ある意味民主主義が本来の力を発揮できていない(そのプロセスに時間がかかり過ぎる)という発想から、ふるさと納税などが生まれているとは思いますが。

筋から言えば、ちゃんと市民と対話して決めるべきことを決めましょうよ、と思うわけです。そこを避けてるなら、ある意味「逃げ」に感じるわけです、一人の市民として。


市の財政のギリギリ感は?

もう一つの違和感。記事では非正規公務員のギリギリの状況について触れています。それ自体そのとおりだろうと思うし、大変な問題でもっと大いに取り上げるべきだと思いますが、もう一つ別な視点が必要と言うか、ギリギリなのは行政の財政もそうです。私たちの子や孫の先まで、将来世代に渡る借金が累積しています。

コロナ禍の対応で、あの財政的に優良と思われていた東京都さえ厳しい状況が報道されていますが、加西市の財政もきっと大変なのだろうとは容易に想像できます。労働者視点で上記の記事はまとめられていますが、一方で社会共通の器である行政の財政状況のことも市民としては気にかけなければいけないし、その情報提供もメディアとしては必要なんだろうと思います。


非正規職員に声をかけたから問題なのか?

さらにもう一つの違和感。寄付募集を非正規職員までに広げているから問題、という視点です。そもそも正規職員も含めて、被雇用者である職員からの寄付を前提として予算化までしているというからおかしいと指摘しましたが、そこに正規、非正規の区別はそもそも関係ないはずです。強制性が伴っている時点で、本来は寄付と呼ぶべき代物ではない。

寄付は「誰かに言われてするものではありません」とのコメントもあります。言いたいことはもちろんわかりますし、文脈を理解すれば違和感は感じないのですが、この字面だけ見ると実は私は違和感を感じています。


寄付は本来どんどんASKすべきもの

というのはですが、ファンドレイジングについて少しでもかじった人はご存知だと思いますが、寄付が集まらない一番の理由は全世界共通でして「頼まれなかったから」(ASKされなかったから)です。

誰かに言われて、「あ、そういう課題がこの地域にあるのね」、「あ、そういう団体があるなら応援しなきゃ」と思って寄付をするわけです。これはむしろ寄付を募集する市民活動団体側が意識しなければならないことですが、寄付してほしいと常に伝え続ける努力が欠かせないと思っています。

私が忘れもしない強烈なメッセージがあります。あるファンドレイジングの本に書いてあったのですが、「あなた(NPO)が寄付を依頼しなければ、あなたは潜在的寄付者から寄付をする機会、権利を奪ってしまうことになる」というものです。

そこまで言うか、ともお思いでしょうけど、つまりはそういうメンタリティーで寄付を依頼しようと。寄付をお願いすることは決して物乞いなのではなく、何も怖がるものではなく、寄付をする機会を提供する素晴らしい行為なのだと。あなたのファンドレイザーとしての行為は正当化されるべきものであると。

寄付をする、しないは、あくまで頼まれた本人が決めることであって、寄付を依頼する前からNPOが予めあの人にはお願いしない方が良いだろう、と先入観を持つべきではないと。市民として、潜在的寄付者には地域の課題を知る権利があるのだと。

NPOは日々地域の課題に向き合っている第1人者であり、それを地域の人に知ってもらい、理解・共感してもらい、サポートしてもらう必要があると。上記のメッセージにはそんな想いが詰まっているわけです。

加西市の話に戻りますと、つまりは、本来の寄付であるならば、むしろ非正規職員も含めて堂々とサポートの呼びかけを大いに行うべきだ、ということです。ただ、上記のように本来の寄付とは呼べない代物になってしまっているから、そもそもおかしいんですけども。


まとめです

そろそろ読み疲れだと思いますので(私も書き疲れました)、話をまとめますと、寄付は強制されるものではない、ということを一番言いたかったわけです。

様々な課題当事者の権利擁護者でもあるNPOとしては、強制、強要ということに一番敏感でなければなければならないと思うし、むしろ同じ音の「共生」こそ目指すべきものだと思うわけです。

地域には様々な背景やお困りごとを持っている人がいて、一緒に同じ地域に暮らす人として、その痛みを知って、分かち合って、支え合っていこうと。ソーシャル・インクルージョンとか、多文化共生とも呼ばれますが。それがNPOがもたらす大事な営みです。

寄付はそのプロセスを担う重要な手段だと思っています。今回の記事や出来事は、その大事な営みを汚された想いがしましたので、ファンドレイジングをかじった人間としては看過できず、ちょっと(かなり?)長くなりましたけど、私の個人的な思いをまとめてみました。

お読みいただき、ありがとうございました。